「招き館の殺人」問題編@
著者:月夜見幾望


 <招き館の殺人 プロローグ>


 あれは、そう、梅雨真っ只中の6月中旬頃だっただろうか。
 その頃と言えば、ここ八王子では珍しく事件件数の少ない月だったと思う。そう言うと、ほかの月は事件が頻繁に起こっていると思われがちだが、それほど多発している訳ではない。
 東京都内とは言え、八王子は内陸も内陸、少し歩けば緑にぶつかる盆地街だ。
 関東山地の一部である高尾山や陣馬山、そして数々の丘陵によって三方を囲まれたこの街は、森林面積が都市全体の実に46%を占める。
 三大都市圏の郊外を中心に計画されたニュータウン建設の影響からか、人口は東京都内の市町村の中で第一位であるが、それは夜間の話である。
 別名ベッドタウンとも呼ばれていることから分かるように、純粋な住宅地が大部分を占める八王子では、昼間人口が極端に少なくなる。若者は大方都市部の勤め先へ出かけてしまうからだ。
 それ故からか、市町村別の年間事件発生率の統計を見ても、それほど際立ってはいない。むしろ、目立たない方だろう。
 日にちに数件起こる交通事故やその他の人身事故、火事などの災害は警察や消防に任せておけばいいだけの話で、この場所に事件解決の依頼が来ることは稀である。それはつまり、この町の治安が一応は保たれていることを意味するのかもしれないが……。

「ふ〜……」

 私は、ここ数年発生した不可解な事件、未解決事件、奇怪な出来事が閉じてあるファイルを本棚から抜き出す。
 週に数回は眺めているそれは、もはや愛読書と言っても過言ではない。
 答えの書かれていないパズル本。あるいは、条件だけ与えられている数学の問題に似ているかもしれない。
 限られた条件の中で、ただひたすら脳を働かせて新しい解答を導き出す。それは一見単純な試行に見えて、その実、奥が見えないブラックホールに吸い込まれるような気分になる。
 しかし、その感覚はこの職に就いた者ならば、一度は味わっているに違いない。
 複雑に絡み合った論理の糸を紐解くのがいかに難しいか……そしていかに面白いか。
 その作業に没頭している間、私は数々の煩悩を忘れ、代わりにとてつもない快楽を得る。
 そう、そして私が八王子(ここ)にいる限り……、






 ───怪事件は必ず存在する。







 <招き館の殺人 問題編>


   1

 6月のある朝のことだ。
 夏至も間近というこの時期、日の出はとっくに過ぎているはずだが、心なしか部屋の中が普段よりも暗かった。湿っぽい陰鬱な暗闇が寝室を支配している。
 昨晩セットしておいた目覚まし時計はまだ起床時間を告げていないが、あまりの空気の重たさに二度寝をする気分にもなれず、ちょうど喉も乾いていたので、そのまま起きることにした。
 枕元に置いてある携帯電話で現在の時刻を確認する。
 午前5時49分。
 昨日の夜は事務所に遅くまでこもって捜査ファイルの整理に追われていたため、帰宅が0時を回ってしまっていた。それから風呂に入りすぐ就寝したものの、睡眠時間は決して充分とは言えないだろう。自分でも体の疲れがまだ残っているのが感じられる。

 私は、ベッドに腰かけたまま、なんとなく部屋を見回してみる。
 落ち着いた白の壁と、全体の雰囲気を壊さないように選んだ薄いブルーのカーテン。やや、温かみを感じる木製のクローゼット。机の上には最新型のノートパソコンが一台置かれている。
 事務所で片付けられなかった仕事を自宅でもできるようにと購入したものだが、几帳面な私は「その日の仕事は、その日のうちに」が基本なので、自宅のパソコンを業務用に使うことはほとんどない。主に気になる出来事をネットで調べたり、高校時代からの趣味である執筆作業をするくらいである。
 仲の良い女友達の家へお邪魔すると、最近の人気男性アーティストやアイドルのポスターが壁に掛けられているのをよく見かけるが、そういう趣向は私の趣味に合わない。
 唯一この部屋で自分らしさが感じられる物といえば、本棚を埋め尽くさんばかりの推理小説だろう。
「殺人」「密室」「犯罪」「惨劇」……それらの文字が躍る背表紙がずらりと並ぶ様は傍から見れば異様に映るかもしれないが、私は逆に心踊らされる。

 ───奇妙で不可思議な謎。緻密に張り巡らされた伏線。読者を嵌める罠。そして、鮮やかな謎解き……。

 それは、まるで文章のマジックだ。
 観客(どくしゃ)に対する挑戦状。推理に必要な根拠をすべて提示し、奇術師(さくしゃ)は彼らに問いかける。

 ───「あなたはこの謎が解けますか?」

 その、書き手と読み手の擬似的な会話が、私の脳を刺激する。
 初めて読んだ推理小説は、高校時代に所属していた部活の先輩が書いた作品だったが、それ以来、私は近場の本屋に頻繁に足を運び、新しい刺激を求めて様々な推理小説を読み漁るようになったのだった。
 娯楽と呼ぶには、あまりにも血なまぐさい刺激を。

 まだ出勤時間まで幾分かあるから、お気に入りの小説でも読んで目を覚まそうか、とも考えたが止めておいた。疲れで疲弊している頭では、的確な情報を読み取ることができないだろう。それでは、物語を充分に楽しめない。
 少し迷った挙句、私は温かいインスタントコーヒーで目を覚ますことにした。
 無機質さが漂う寝室とは異なり、客間とキッチンは造花や座椅子、ウォールテーブル、ユニットキューブなどのインテリア用品で、モダンな和室を演出している。これらはインテリアコーディネートに長けた母が提案したもので、私はすごく気に入っている。
 

 私の母───東雲香織(しののめ かおり)。旧姓は清水(しみず)だったが、母の生まれはここ八王子ではなく、広島県尾道市。
 瀬戸内海と山地に囲まれた、潮風の心地よい街だ。平地が少なく、山肌に住宅や寺が密集しているため、道路も傾斜しているものが多く『坂の街』とも呼ばれている。
 そんな緑と共存している港町の、ある寺に生まれた母は、たいそうやんちゃな性格で幼少の頃から寺のお堂や近くの山中で遊びまわっていたそうだ。
 そうする中で自然と和様や山の空気を好むようになった母は、18歳で県内の大学に入学し、即座に山岳サークルに入ったという。
 以来、日本各地の山々の登山に挑戦していたそうだが、大学三年の時、母は運命的な出会いを果たす。
 東京都内の大学の山岳チームとの交流会ということで、向こうの大学生らと共に富士山に登ったらしいが、その時に知り合った男性───私の父、東雲彬(しののめ あきら)に一目惚れし、大学卒業後めでたく結婚。
 その際、寺の後継ぎをどうするかで両親(私の祖父母)と多少揉め事があったらしいが、母の強い熱意に二人とも根負けし、父彬との結婚を許したそうだ。そうして、二人はこの八王子市に新居を構え、甘い生活を送ることになる。

 結婚五年目で私───東雲桜(しののめ さくら)が生まれてからは、祖父母も「ようやく孫の顔を見ることができた」と大喜びで、私はたいそうかわいがられながら育てられた。
 しかし、父や母が割と活動的で他人との付き合いもうまかったのに対して、私は人見知りが激しい内気な人間になってしまった。
 小学校、中学校と友達が少なかった私を、母はすごく心配し、必要以上に私に気を配るようになった。だけど、当時独りでいられる時間を求めていた私は、母の親切な行為をいかにも迷惑だと言わんばかりに振り払った。
 今にしてみれば、私はかなり馬鹿だったと思う。親の優しさや愛情に気付かず、自分の殻に閉じこもるばかりの日々を一片も疑うことなく「正しい」と信じていたから。人にはそれぞれ個性があって、自分は付き合いがうまくないのだからそれでいいじゃないか、と思い込んでいたのだ。

 そんな私にも、高校に進学してから「親友」と呼べる友達ができた。
 私とは対照的で、どんな時でも笑顔を絶やさない明るい女の子。
 クラスに馴染めず、いつものように殻に閉じこもっていた私を暗闇から連れ出してくれた女の子。
 私が入部したい部を告げると「なら、あたしもそこに入る!」と言ってくれた女の子。
 そして───……
 

 過去に想いを馳せていると、ピィ〜というお湯が沸騰する甲高い音が聞こえてきた。
 私は急いでコンロを止めると、コーヒーと昨日買っておいた惣菜パンを出して朝食の支度を始める。
 何気なくテレビをつけると、天気予報が放映されていた。それによれば、今日は一日中重たい曇り空で、局地的に雷雨の可能性があるらしい。

「最近ずっとこんな天気なのよね……。早く晴れてくれないかしら……」

 室内干しが続いているシーツや衣服のことを考えて、そっと溜息をつく。
 昔は雨が好きだった。祖父母の家───和様を重んじる閑静とした寺の中で聞く雨音は私の耳に心地よく響き、じっと目を閉じて正座していると、まるで心の中まで洗われるようだった。それは、都会の大喧騒の中では決して聞くことのできない「自然の調」だった。
 それがいつ頃からだろう───私の中で「不吉なことが起こる前触れ」に変わっていったのは。

……鳴り止まぬ雨の音…

 あれは……私が社会人として働き始めた23歳の4月。

……薄ぼんやりと揺れる影…

 まだ都会の雑踏や交通機関の乗り継ぎに慣れていなかった頃。

……咲き乱れる桜の花びら…

 仕事の帰りに、ふと近所の夜桜を見たくなって、

……その幻想的な風景の中…

 少し寄り道したら、

……あの人は“───”がない状態で…






 真っ赤な花を咲かせていた───……







「うっ!」
 
 当時のことを思い出し、私は急に吐き気を覚えた。

 そのひどく芸術的で、けれども人としての機能は欠落してしまっていた“父”の姿が。
 雨で褪せることもなく、むしろ毒々しいほど鮮やかに染まっていた赤い血が。

 ───今でも私の胸を強く締め付ける。
 未だ逮捕されていない犯人を必ず追いつめるため、この道を歩むことを決意した自分自身への縛めとして。
 
 
 
   2
 
「───では、次のニュースです。八王子市西寺方町の一角に建てられている古びた洋館───通称『招き館』で、当時の館の主人、八尾邦人(やお くにひと)さんが何者かによって殺害された事件。あの事件から一年経った昨日、現場近くの式場では、亡くなった八尾邦人さんを悼む追悼式が行われました───」
 
 朝食を済ますと、テレビでは朝のニュースが報じられていた。
 その中に出てきた『招き館』という単語が私の記憶を刺激する。
 もう一年も前のことだから事件の詳しい概要は忘れてしまったが、それがいかに不可思議な事件だったかは覚えている。

『招き館』───「招かれざる者には死が訪れる」という迷信だか都市伝説だかが一人歩きし、地元の人々の間では一時期頻繁に話題にされていた有名な洋館だ。
 建築されたのは昭和初期、確か第二次世界大戦が勃発する直前の1938年7月。外観はこれといって特徴もない普通の洋館だが、建築費はかなりの額にまで上ったそうだ。
 そして、その当時から「人が消える」という謎の現象は起きていたらしく、ある文献には「1943年5月18日───『招き館』に入った児童と教師ら、合わせて24人が一夜の内に忽然と姿を消した」とまで書かれている。
 バブル景気の頃、古くなった館の建て直しが行われた。
 それを境に、奇妙な現象はぴたりと止んだらしいが、一年前今度は館の主人である八尾邦人という中年男性が死体で発見された。
 しかも「館の壁に全身が埋まった状態で」である。子供たちの間では、「『招き館』に近づくと館に食べられる」という噂まで流れているらしい。
 なるほど、確かに考えれば考えるほど怪しい館ではあるが、私は非科学的な超常現象など信じてはいない。そこには何かしらのカラクリが存在するのだろう。

 私は、事務所で『招き館』に関する一連の出来事を調べることにした。
 時刻は7時前。そろそろ出勤する時間だ。
 空を見上げると、どんよりとした分厚い雲に覆われていた。まだ雨は降り出してはいないものの、この分だと予報よりも早く降り始めることだろう。
 そう判断し、少し大きめの傘を持って自宅を後にした。



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